rururu☆

思いつくまま 気持ちを記録。。

事件報道に思うこと。

…なんて、そんなすごいことは書けないのですが。思うところを少し…書けるかな?
最近の人を殺めることに関する事件の内容は、その内容の凄惨さがどんどん増しているように思われます。その方法とか…単に1事件での関わった人数の問題でもなく、きっと人の命の重みを実感できない人が増えてきているのではないかな、と想像します。または自分の身の回りに様々なストレスが数多く存在し、それを回避・解決する術を持たず、不満を増大させていく。時代と共にそのストレスに対応する心が弱くなってきているから少しのストレスも心の重石となるのだと思う。いつも心のコップの不満のお水はいっぱい状態…表面張力でコップから盛り上がったお水はそこに一滴のお水が落ちてきただけでコップからあふれ出てくる事に…不満の爆発がそれかと。
多分、事件に直接的なことは人が聞けば「なんだ、そんなこと?」と思われることも、それはきっと単に不満のお水がこぼれ出るきっかけを作っただけに過ぎない。こぼれ出る前のコップのお水は様々な言葉にならないストレスで満たされていたはずだから。
「どうしてこんな恐ろしいことが…?」…その真相を少しでも垣間見ることを試みようとするならば、そのこぼれる前のお水の中身を知ろうとすることかな…それでも、人の心は闇に包まれているから…凄惨な事件を起こさない人の心だってね…‘理解しよう’なんて思うのはおこがましい事なのだろう、とも思う。
自分の心の動向の一部始終が分かりますか?…私には自分が分からなくなる時がありますから…



凄惨な事件を耳にする度に心がどんより重くなって辛い気分になります。そうある人に訴えたら事件報道なんて人の心を暗くするだけだから、聞かなくたって日々の生活のは何の支障もないのだ、と言われた事があります。確かにそうかもしれないと思います。ただ、世の中で起きていることに全く無関心でいられる、という事もなくて、ある程度は知っていたいと思うわけですが。でも、その事件報道の内容は本当に私たち部外者が知るべきことなのか、疑問に思うものも少なくないように思います。どこの出身、学歴、過去の職歴、現在の勤め先…もう、加害者の身内の下へ報道関係者は駆けつけているでしょうか。どんな生い立ち、とか。凄惨な事件であればあるほど人は「どうしてこんなことをするような人がいるのだ!」と全く理解不能な出来事に自分たちなりに結論を出そうとしていろいろな情報を手に入れたがる。早く結論付けて自分たちの中でこの事件を終わりにしたいから。「こういう人だからなのかもね…」などと。もしくはどこから呼ばれたのか分からない‘専門家’といわれる人の解説を鵜呑みにする。偉い人が言っている事にそうそう間違いはない、とでも言うように。彼に会った事もない人が、ただ発端となった事件を垣間見ただけで何を語れると言うのだろう。報道の責任をつくづく思った。



20年ほど前でしょうか、一人の中学生が自殺をしました。とてもひどいいじめを受けていたことが彼の死後、そのすさまじい内容があきらかになり、世間の話題にもなりました。この事件について、ある人が1つの疑問を抱きました。「どうして彼はこのひどいいじめを誰にも訴えることなく、助けを求めることもなく、一人で死んでいく道を選んだのだろうか」…この疑問を解決するためにはその自殺と言う事件を取り巻く環境の全体像をより正確に描き出そうとすること、その中で死を選んだ彼の心に少しでも近づけるように…彼の心模様はどんな風だったのだろう…ばらばらに砕けたパズルのピースをひつずつ拾い集めて一枚の絵を完成させるような地道で骨の折れる作業を事件後20年を経てようやくその方は‘彼の心模様はこんな風だったのかもしれない…’と言う域に達しようとしていらっしゃいます。20年という時間、その間にあった人は何百人でしょう、その間に思考を重ねた時間は…。そこまでしても人の心とは‘こういうことだった…のかもしれない’と言う域までにしか達することが出来ない、誰もがその胸の内に持った誰にも踏み込めない『闇』だと思うのです。



    『今日、○○で刃物を持った…が次々に無差別に人を襲いました』


報道で、私たちが正確に知ることが出来るのは、それが起きたという事実だけです。それ以上の事を知ろうと思わないほうがいいのだろうな…そう思うようになりました。なぜって、赤の他人の私が一部の断片的な報道だけで事実以上の事が判るはずがないと思うから。