rururu☆

思いつくまま 気持ちを記録。。

日々の出来事…?

最近常に注目している日記があります。きっと私の想像をはるかに超える様々な経験をされてきて、日記のそこここにその経験から来るあったかい言葉、あったかい目線、微妙な距離感、どんな時でも変わらない考え方がちりばめられていて、読ませて頂いていると、いつも胸の真ん中にすとんと、何かが落ちてきて納得出来る感じ。
その日記の更新が少し途絶えた時。
「どうしたんだろう?」…なんだか不安になってしまった。
そりゃそうですよね、この日記は生活のほんの一部分であって、実生活で時間が取れないとき、落ち着いて物事を考えていられない時、人にはいろいろあるはずなのだから。
ふと、その人の事を、他の人が評している日記に出会った。彼と面識がある人らしく、彼の日記に対する想いがほんの一部綴られていた。
ご自分の日記が他人の眼にどのように映るのか、をとても重視していらっしゃる。
例えば写真を掲載される時、一日の日記に載せるために200枚ほど撮り、その中から自分が伝えたいと思う事が一番伝わる写真がどれかを吟味されるのだとか。言葉も同じく正確に伝えることに凄くこだわっていらっしゃる。
実は、このエピソードには少なからず驚いてしまった。
自分が人に読まれることを前提としていない日記を書いているものだから、他の人もそれほど深い考えを持たずに本当の意味で自分の思いを日々の日記として、割と自然体で心から湧き出るような言葉をつらつらを書き止めていらっしゃる…その方にそんなイメージを持っていたのですが…全然違っていました。すごく計算されていて、考えつくして日記を公表されている。だからいろいろな人の心にも届くのだろうし、ご自身にその手ごたえがあるからこそ、その次の日記も考えつくして世に送り出されるのだろう…自分の日記と比べること自体失礼でありました…反省。


生きている中で自分の力ではどうする事も出来ない、と思われる憤りを覚える時、心の中に訳の分からないもやもやがあってイラついて仕方がない時、それを吐き出して自分の外で力で解決しようとするのではなく、自分の中のどこかに置き場所を見つけること、そこにそれがあっても気にならない自分になること…物事に抗って戦って克服していくこともあるのかもしれないけれど、何もせず、じっとしている方がいいときもきっとある。それは心が大きい人にならないと‘そこにそれがあっても気にならない自分’にはなりづらいかもしれないな。